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身体で思いを形にするワークショップblog

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「こうなってほしい!」「そのためには、今どうすればいい?」そんな思いを、「体で感じる」ことを重視しながら表現するワークショップの進行役(ファシリテーター) まつぞうのblog

作者の「思い」と鑑賞者の「解釈」のズレを楽しむ豊かな世界

今週の「深イイ話」での、芸人/画家のたいぞうさんの話が興味深かった。

たいぞうさんの絵がよく売れるそうで、売るための「秘策」があるという話。

たいぞうさんは当然自分の「思い」を絵に表現しているのだが、絵を見た人は、その思いを汲み取るとは限らず、独自の解釈をすることも当然ある。

自分の個展に立ち会っているたいぞうさんに、絵に興味をもったお客さんが「この絵は○○を表してるんですよね」と、たいぞうさんの思いとは違う解釈をしていても、たいぞうさんはそれを否定せず、「そうです。この絵は○○を表してるんです」と応えるという。お客さんはやり取りに満足して、気分よく絵を買っていくという。

抽象的なたいぞうさんの絵は、多様な解釈が可能。
自分の思いとは違う解釈をされても、「なるほど、そういう見方もあるのか」とそれを受け入れ、のっかていくたいぞうさん。潔いというか、懐が深いというか、商売上手というか。

興味深い話ではあるが、ある意味「手の内をばらした」ことによって、この秘策は次のステージに入るような気がする。

だって、この話を聞いた上で、たいぞうさんの個展で絵を見て、「この絵は○○を表してるんですよね」というお客に、たいぞうさんが「その通りです」と応えても、「ほんとですか?深イイ話見ましたよ。お客さんの解釈に乗っかるって。ほんとのところはどうなんですか?」・・・という展開に当然なりそうだ。
今までたいぞうさんの絵を買ったお客さんも、この話がばらされたことで、「ほんとのところはどうだったんだろう?」と気になっている人もいるだろう。

ばらさなければ秘策は通用しただろうけど、ばらした今後はどうなるんだろう?ちょっと気になる。

「お客さんの解釈の通りです」という相手に合わすコミュニケーションもあれば、「この絵はこういう解釈なのだ。作者の私がそういうのだから間違いない。異論は認めん」という作者の主観を押し通すコミュニケーションもある。
どちらかというと後者が主流だろうか。なんか学校の教え方は主にそっちになってしまっているようでつまらない。

鑑賞する人には好きに解釈する自由がある。
「作者の思い優先主義」はどうもつまらないと思う。
かと言って、「お客様優先主義」もちょっとどうかな、と。
「自分の思いがすべてではない」というたいぞうさんの潔さは、「作者の思い優先主義」にとらわれてない自由さがあるけど、でも買う人はたいぞうさんの作品に込めた本当の思いは知りたいのではないかと思う。「秘策」がばらされた後では、自分の解釈が揺らぐと思う。

僕のワークショップでよく使う「人間彫刻」は、作者の思いを言葉では説明しないまま人間彫刻を表現してもらって、それを見た人に自由に解釈してもらう・・・ということをよくやります。
作者の思いを聞くのは、見た人の解釈を聞いた後です。
先に作者の思いを聞いてしまうと、どうしてもそれが「正解」のようになってしまうので、まずは見た人の解釈を聞く。実は見た人の解釈もすべて「正解」なのだ・・・というスタンスでやっています。

言葉では何も説明していないのに、作者と鑑賞者の思いがピタリと重なることもよくあります。「言葉を越えて通じ合えた」と思える瞬間です。
もちろん解釈がずれる事はよくあります。けれどもズレもまた興味深いこと。そこから気づかされることもあったり、豊かな対話のきっかけになることも多いです。

作者の思いも、鑑賞者の解釈もどちらも正解。ズレるのもまた良し。そう考えることで豊かな対話の世界が開けてくる・・・そんなこともあります。
by matsuzoh2002 | 2011-11-18 04:20 | ファシリテーターとして

by matsuzoh2002