平和学の手法として、被抑圧者の演劇(見えない演劇)が活用されてるのを発見
コスタリカにある国連平和大学(University for Peace)国際平和学修士課程で学んでいる方の日記で、「被抑圧者の演劇」が平和学の手法として活用されているのを発見。
興味深く読みました。
「見えない演劇」のようなことがプレゼンテーションの一環として行なわれたようですね。
「見えない演劇」というのは、周りには演劇だと分からない形で演劇を「上演」して、周りにいる人たち(観客の自覚がない観客)を巻き込んで、周りにいる人たちのリアクションにも即興で対応していく・・・というもの。
あえて観客の自覚がない人たちを観客として巻き込むのは、効果的な主に問題提起のためですね。
傍観者ではなく、当事者として、問題について考えるきっかけにしてしまおう・・・という。
もちろんその場で傍観する人も多いでしょうけれども、心の動きは、テレビで何かを見るよりもはるかに大きくなるはずです。なんと言っても、「現場」に居合わせてるわけですから。
この日記でも、教室の中にすでに存在していた問題をあえて浮上させるような「劇」が仕掛けられていて、興味深いです。
こんな風に「劇だった」と明かされる場合もあれば、街角などで見えない演劇が仕掛けられて、そこに居合わせた人たちは劇だとは知らないまま、その場を離れていく場合も多いはずです。
僕自身は小心者なので、見えない演劇を自分から仕掛けたことはないです。
サンフランシスコで、一度「参加」したことあります。端っこのほうで、細々と参加した感じでしたけど。このことはまたあらためて近々書きたいと思います。
それにしても「国連平和大学」の存在も知りませんでしたが、そこで平和学の手法として「被抑圧者の演劇」が活用されているとは、驚きであり、実践しているものとしては、うれしくも思いました。
「被抑圧者の演劇」は国連でも公認されている・・・みたいなことは聞いたことあったんですが、これもその一環なんでしょうかね??
興味深く読みました。
「見えない演劇」のようなことがプレゼンテーションの一環として行なわれたようですね。
「見えない演劇」というのは、周りには演劇だと分からない形で演劇を「上演」して、周りにいる人たち(観客の自覚がない観客)を巻き込んで、周りにいる人たちのリアクションにも即興で対応していく・・・というもの。
あえて観客の自覚がない人たちを観客として巻き込むのは、効果的な主に問題提起のためですね。
傍観者ではなく、当事者として、問題について考えるきっかけにしてしまおう・・・という。
もちろんその場で傍観する人も多いでしょうけれども、心の動きは、テレビで何かを見るよりもはるかに大きくなるはずです。なんと言っても、「現場」に居合わせてるわけですから。
この日記でも、教室の中にすでに存在していた問題をあえて浮上させるような「劇」が仕掛けられていて、興味深いです。
こんな風に「劇だった」と明かされる場合もあれば、街角などで見えない演劇が仕掛けられて、そこに居合わせた人たちは劇だとは知らないまま、その場を離れていく場合も多いはずです。
僕自身は小心者なので、見えない演劇を自分から仕掛けたことはないです。
サンフランシスコで、一度「参加」したことあります。端っこのほうで、細々と参加した感じでしたけど。このことはまたあらためて近々書きたいと思います。
それにしても「国連平和大学」の存在も知りませんでしたが、そこで平和学の手法として「被抑圧者の演劇」が活用されているとは、驚きであり、実践しているものとしては、うれしくも思いました。
「被抑圧者の演劇」は国連でも公認されている・・・みたいなことは聞いたことあったんですが、これもその一環なんでしょうかね??
by matsuzoh2002
| 2008-01-04 16:39
| ファシリテーターとして