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身体で思いを形にするワークショップblog

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「こうなってほしい!」「そのためには、今どうすればいい?」そんな思いを、「体で感じる」ことを重視しながら表現するワークショップの進行役(ファシリテーター) まつぞうのblog

「資格を取る」ことと「実践家になる」こと

引き続き「サイコドラマの現在」 現代のエスプリ459を読んでいます。

日本ではサイコドラマを実践するのに、特に資格は要りません。

アメリカでは最低でも800時間の訓練が必要だそうです。

サイコドラマ事情に詳しくはない僕ですが、推測するに、この資格が日本でも要求されるなら、多くの人がこぼれ落ちてしまうことでしょう。

その辺りが、サイコドラマの専門家の方々の座談会で触れられています。

「どこかで専門家という制限を設けなければ、ならない部分があって、そうしないと平気で危ないことをやっている人たちがいても、誰にもそれを止める権利はないわけです」

・・・というように、「資格」が設定されないことに関する、危険性も認識されているようですが、

「本来の力を持っている人がそこから抜け落ちて、勉強してただ試験に合格したものだけが資格をとってくるというのに、たいへん抵抗がある・・・(中略)・・・どうやって我々は学んだかというと、外国の人たちのドラマを見て、それから盗んだり観察して、自分なりに工夫してここまできたわけです。本当はそういうことでできるはずなんだろうと思うんです」

・・・というように、試験をクリアした人がサイコドラマの実践家として認められる・・・という制度には否定的なようです。

最初に実践を始めた人たちは、当然制度も何も整備されていない中、試行錯誤しながら、無人の荒野を切り開いてきたわけです。

一度資格が整備されると、そのような開拓者的に勉強して、ものにしていく人が認められなくなってしまうというのは、確かに少しおかしなことのような気がします。

日本のサイコドラマの、そのように、資格に対して大らかなありようは、僕は好感を持って受け止めています。

僕が自力&海外のワークショップ体験で学んできた「被抑圧者の演劇」は、世界的に資格が特にありません。実践家は、名乗ったもん勝ちです。

これは、まだ手法が固まりきっておらず、進化を続けている段階というせいもあるかもしれませんが、「被抑圧者のため/社会変革のため」という目的さえはっきりしていれば、自由に使ってくれ・・・という「手法」よりも「目的」が重視されているような気もします。

資格がないことの危険性を自覚しつつ、それでも自分なりに経験は積み、理解は深めたという前提で、僕も「被抑圧者の演劇」の実践家としての自覚をもっているつもりです。

一方、今勉強中のプロセスワークは、日本でも資格が整備されつつあるところです。

資格を取るためには、金もかかるし時間もかかる。

資格はないのを明示しながら、自分なりに実践経験を積んでいくというやり方を試みている人は、自分の実践の場を「プロセスワーク」と名乗っていのか?・・・というのが、あるところで議論になっています。

「サイコドラマ」の場合なら、それは誰にも止められない・・・というのが実情のようですね。

僕としては、「平気で危ないことをやる」ような人には、やはり気軽に名乗ってほしくない・・・というのはわかります。

でも同時に、自分なりに実践経験を積んでいくことによって自ら力をつけてきた部分は大きいと思うので、資格が整備されると、そういうやり方が認められないというのはどこか窮屈な気もするんですよね。

そんなわけで、どっちの気持ちもわかるとは言え、リスクを背負いながら自力で経験を積むのもあり!というのが僕の気持ちですね。

教習所に通わなくても、運転技術があって、本試験に通れば自動車免許は取れる・・・っていうことでいいんじゃないんでしょうか?
by matsuzoh2002 | 2006-08-30 22:51 | つぶやき

by matsuzoh2002