英語/非英語よりも、個人的にはむしろ… …ワールドワーク報告12…
4日目朝の大グループの続きです。
僕の手を離れて、「言語」をテーマに話は進んでいるようだ。
ふと気がつくと、前の記事でも触れた、僕が何だかわからないままただ眺めていたプロセスの中で、身体(ジェスチャー)で怒りを表現していた女性が、僕のすぐ隣に来ていた。
最初に彼女がいた位置は、僕の居る所からはだいぶ遠かった。
わざわざ来てくれたんだ。
彼女はからだで語りかけてくれていた。
右手の小指を僕の前に差し出していた。
それは、"Shall we dance?"というように受け取れた。
僕がたびたび、この会場の片隅で踊っているのを見てたのかな?
僕も右手の小指を出し、小指と小指を合わせたまま、ささやかなダンスが始まった。
周囲では、「言語」をテーマに話は進んでいた。
踊る僕たちに注目が集まっている様子はない。
議論を邪魔しているとも思えない。
小指に飽きて、薬指を合わせて踊る。
中指、人差し指・・・と移行し、指をあわせるのは終了。
手と手を、つかず離れずのところに保ちながら、踊り続ける。
触れそうで触れない手と手の間に、見えない何かがあるような、そんな不思議な感覚が生じてくる。
見えない「何か」をボールのように持つ動作をすると、彼女も一緒になって「何か」を持つ。
2人でボールのような「何か」を眺める。
こうなってくると遊び心が出てきて、「何か」をいったん自分の両手でつかんでから、相手に渡してみる。
相手も「何か」を渡し返してくる。僕は「何か」がもの凄く「重い」かのように受け取る演技をする。
・・・こういうのは演劇系のワークショップではよくやったりするんですが、何の打ち合わせもなく、何となく2人の間で即興的に出来てしまってるのが面白いですね。
「何か」をボールではない別のもにして、しばらく渡しあう。
伝わってるかどうかわからないけど、活きのいい魚のつもりで渡したり、ジャグリングしながら渡したり・・・。
そして彼女は、「何か」をパイのように僕の顔にぶつけてきた!
僕はどう返そう?と思っていると、彼女は、自分の顔にも「何か」をぶつけた!
何かが完了したような気がして、2人はハグして、終了!
・・・その間にも、周囲では、「言語」に関して議論百出。
「だいたい、ワールドワークはもう10回目だというのに、いまだにこんな風に言語の問題が議論になるって言うのはどういうことなんだ?」
「同時通訳システムとか、導入できないのか?」
「そんなの導入したら、参加費は今のままでは済まないけど、それでもいいの?」
「それは困る」
・・・そんな議論が耳には入ってきた。
しかし、僕は束の間、言葉に頼らないコミュニケーションを楽しんだことで十分満ち足りていた。
今思えば、そんな風に、言葉に頼らないコミュニケーションが今、ここで、楽しめたことを伝えてもよかったかもしれない。
けれども、その場ではそんなこと思いつかなくて、ボーっと、議論されているのを眺めていた。
全体のプロセスは終了した。
どういう幕引きがされたのか、さっぱり覚えがないけど、終了した。
僕にはいろいろと声がかけられた。
とてもアクティブで、このワールドワークを通して1番目立っていた1人であるアボリジニの男性が、「日本語はわからないけど、君の言ってたことは全部わかったぞ!」と言ってくれた。
こういうのは、なんかうれしいね。
そして、別の女性が「今のプロセスの成果を受けて、ワールドワークで言語、特に英語が母語でない人に対してどう配慮していくのかを議論していく有志の委員会を創ることにしたんだけど、あなたもどうかしら?」・・・というような話をしてくれた。
え、そんな話になってたのか!
話は僕の手を離れたところで、進化して、そんな委員会ができるとは!
ビックリ!
さて、委員会の言いだしっぺではないとは言え、話の発端となった僕は、「有志」になる気があるのだろうか?
しばらく、自分に問いかけてみる・・・
・・・ない!
言語についてどうするか委員会は、結局やっぱり言語で、英語で、行なわれてしまうのだろう。
それは、僕にとっては非常に疲れる。
その疲れをおしてまで、委員会に出る気にはなれなかった。
6日目の夜には、自分のワークショップ(「被抑圧者の演劇」入門)をするのだし、そのための宣伝用ポスター作りを今晩はするのだ。
そちら優先だ。
委員会へのお誘いは丁重にお断りした。
*
委員会に集まった有志の皆さんは、その日の晩、夕食を食べながら議論を重ねていた。
再度誘われた僕は、いったんその場に加わりかかったものの、やっぱり乗り気でなかったので、その場を離れた。
議論の成果は、書類にまとめられて、掲示されるとともに、翌日以降のワークの場にも反映されて、英語がわからない人には、希望があれば、英語がわかる人がボランティアとして隣についたりするなど、配慮がなされるようになった。
ピッタリ隣についてもらわなくとも、周りにいる英語がわかる人に聞いたりするのが、雰囲気的にやりやすくなった。
何の気なしに一石を投じたことが、波紋を広げ、しっかりと受け止められていくのは、なんとも不思議でもあり、うれしいことだった。
しかし、それでもやはり、今になって思えば、僕が本当に訴えたかったのは、「英語/非英語」の問題よりもむしろ、「言語/非言語」の問題だったんだと思う。
英語/非英語の問題は多くの人が思っていたことで、たまたま僕が火付け役にはなったものの、僕が取り上げなくとも、遅かれ早かれ、取り上げられた問題だと思う。
けれども、僕と1人の女性が、非言語のコミュニケーションを繰り広げたことは、2人にとってはとても有意義な時間だったのに、全体の流れからは、見事に無視された。
結局ワールドワークは言語中心に展開して、ときおり動作などの非言語がスポットを浴びることはあっても、基本的には排除されていると思う。
もちろん、「意味のある」コミュニケーションをして「合意」をしていくためには、言語は欠かせない。
けれども、コミュニケーションは必ずしも「合意」が取れている必要はないのではないか?
「非合意的」な、夢みたいな部分にもスポットを当てていくのがプロセスワークのはずなのに、ワールドワークがこんなに言語中心になってしまっているのはどういうことだろう?
僕がやってきた演劇系のワークショップと、プロセスワークを融合させるという方向性が、ますます必要なものに思えてきた。
今回のワールドワークでは、6日目の夜にようやく「被抑圧者の演劇入門」のワークショップをやることが出来たが、次回のワールドワークに参加するときは、2日目あたりに、「言葉を使わないコミュニケーションで遊ぼう!」的なワークショップが出来るといいな。
・・・というように次回のワールドワークの事にまで、思いを馳せたりしております。
これは、2年後のアメリカのどこかでのワールドワークも行くしかないね!
僕の手を離れて、「言語」をテーマに話は進んでいるようだ。
ふと気がつくと、前の記事でも触れた、僕が何だかわからないままただ眺めていたプロセスの中で、身体(ジェスチャー)で怒りを表現していた女性が、僕のすぐ隣に来ていた。
最初に彼女がいた位置は、僕の居る所からはだいぶ遠かった。
わざわざ来てくれたんだ。
彼女はからだで語りかけてくれていた。
右手の小指を僕の前に差し出していた。
それは、"Shall we dance?"というように受け取れた。
僕がたびたび、この会場の片隅で踊っているのを見てたのかな?
僕も右手の小指を出し、小指と小指を合わせたまま、ささやかなダンスが始まった。
周囲では、「言語」をテーマに話は進んでいた。
踊る僕たちに注目が集まっている様子はない。
議論を邪魔しているとも思えない。
小指に飽きて、薬指を合わせて踊る。
中指、人差し指・・・と移行し、指をあわせるのは終了。
手と手を、つかず離れずのところに保ちながら、踊り続ける。
触れそうで触れない手と手の間に、見えない何かがあるような、そんな不思議な感覚が生じてくる。
見えない「何か」をボールのように持つ動作をすると、彼女も一緒になって「何か」を持つ。
2人でボールのような「何か」を眺める。
こうなってくると遊び心が出てきて、「何か」をいったん自分の両手でつかんでから、相手に渡してみる。
相手も「何か」を渡し返してくる。僕は「何か」がもの凄く「重い」かのように受け取る演技をする。
・・・こういうのは演劇系のワークショップではよくやったりするんですが、何の打ち合わせもなく、何となく2人の間で即興的に出来てしまってるのが面白いですね。
「何か」をボールではない別のもにして、しばらく渡しあう。
伝わってるかどうかわからないけど、活きのいい魚のつもりで渡したり、ジャグリングしながら渡したり・・・。
そして彼女は、「何か」をパイのように僕の顔にぶつけてきた!
僕はどう返そう?と思っていると、彼女は、自分の顔にも「何か」をぶつけた!
何かが完了したような気がして、2人はハグして、終了!
・・・その間にも、周囲では、「言語」に関して議論百出。
「だいたい、ワールドワークはもう10回目だというのに、いまだにこんな風に言語の問題が議論になるって言うのはどういうことなんだ?」
「同時通訳システムとか、導入できないのか?」
「そんなの導入したら、参加費は今のままでは済まないけど、それでもいいの?」
「それは困る」
・・・そんな議論が耳には入ってきた。
しかし、僕は束の間、言葉に頼らないコミュニケーションを楽しんだことで十分満ち足りていた。
今思えば、そんな風に、言葉に頼らないコミュニケーションが今、ここで、楽しめたことを伝えてもよかったかもしれない。
けれども、その場ではそんなこと思いつかなくて、ボーっと、議論されているのを眺めていた。
全体のプロセスは終了した。
どういう幕引きがされたのか、さっぱり覚えがないけど、終了した。
僕にはいろいろと声がかけられた。
とてもアクティブで、このワールドワークを通して1番目立っていた1人であるアボリジニの男性が、「日本語はわからないけど、君の言ってたことは全部わかったぞ!」と言ってくれた。
こういうのは、なんかうれしいね。
そして、別の女性が「今のプロセスの成果を受けて、ワールドワークで言語、特に英語が母語でない人に対してどう配慮していくのかを議論していく有志の委員会を創ることにしたんだけど、あなたもどうかしら?」・・・というような話をしてくれた。
え、そんな話になってたのか!
話は僕の手を離れたところで、進化して、そんな委員会ができるとは!
ビックリ!
さて、委員会の言いだしっぺではないとは言え、話の発端となった僕は、「有志」になる気があるのだろうか?
しばらく、自分に問いかけてみる・・・
・・・ない!
言語についてどうするか委員会は、結局やっぱり言語で、英語で、行なわれてしまうのだろう。
それは、僕にとっては非常に疲れる。
その疲れをおしてまで、委員会に出る気にはなれなかった。
6日目の夜には、自分のワークショップ(「被抑圧者の演劇」入門)をするのだし、そのための宣伝用ポスター作りを今晩はするのだ。
そちら優先だ。
委員会へのお誘いは丁重にお断りした。
*
委員会に集まった有志の皆さんは、その日の晩、夕食を食べながら議論を重ねていた。
再度誘われた僕は、いったんその場に加わりかかったものの、やっぱり乗り気でなかったので、その場を離れた。
議論の成果は、書類にまとめられて、掲示されるとともに、翌日以降のワークの場にも反映されて、英語がわからない人には、希望があれば、英語がわかる人がボランティアとして隣についたりするなど、配慮がなされるようになった。
ピッタリ隣についてもらわなくとも、周りにいる英語がわかる人に聞いたりするのが、雰囲気的にやりやすくなった。
何の気なしに一石を投じたことが、波紋を広げ、しっかりと受け止められていくのは、なんとも不思議でもあり、うれしいことだった。
しかし、それでもやはり、今になって思えば、僕が本当に訴えたかったのは、「英語/非英語」の問題よりもむしろ、「言語/非言語」の問題だったんだと思う。
英語/非英語の問題は多くの人が思っていたことで、たまたま僕が火付け役にはなったものの、僕が取り上げなくとも、遅かれ早かれ、取り上げられた問題だと思う。
けれども、僕と1人の女性が、非言語のコミュニケーションを繰り広げたことは、2人にとってはとても有意義な時間だったのに、全体の流れからは、見事に無視された。
結局ワールドワークは言語中心に展開して、ときおり動作などの非言語がスポットを浴びることはあっても、基本的には排除されていると思う。
もちろん、「意味のある」コミュニケーションをして「合意」をしていくためには、言語は欠かせない。
けれども、コミュニケーションは必ずしも「合意」が取れている必要はないのではないか?
「非合意的」な、夢みたいな部分にもスポットを当てていくのがプロセスワークのはずなのに、ワールドワークがこんなに言語中心になってしまっているのはどういうことだろう?
僕がやってきた演劇系のワークショップと、プロセスワークを融合させるという方向性が、ますます必要なものに思えてきた。
今回のワールドワークでは、6日目の夜にようやく「被抑圧者の演劇入門」のワークショップをやることが出来たが、次回のワールドワークに参加するときは、2日目あたりに、「言葉を使わないコミュニケーションで遊ぼう!」的なワークショップが出来るといいな。
・・・というように次回のワールドワークの事にまで、思いを馳せたりしております。
これは、2年後のアメリカのどこかでのワールドワークも行くしかないね!
by matsuzoh2002
| 2006-05-22 22:18
| ワールドワーク@シドニー'06